Visionインタビュー:どこの国でもないフロンティアでの勤務 元村彰雄さん②

音楽出版社を経て入職した元村彰雄さんですが、筑波大学のキャンパスを離れて勤務する機会が2度あったそうです。そのうち1回の勤務地は、なんと南極でした。その話からは、大学の中だけにとどまらず他機関とも連携して仕事を進める事務職員の姿が見えてきます。

――私は大学の事務系の仕事について、元村さんが前職で経験された「編集」の要素がどこかにあると思っています。それはおそらく、職位が上がるほど要求されてくるような気もします。さて、1997年10月に筑波大学に入職されてからは、どのような仕事を経験されたのでしょうか?

最初は体芸事務区(現:体育芸術エリア支援室)の学務・学生担当でした。大学院の博士課程担当として2年半職務に当たってから、当時の文部省に併任の機会を頂いて、大学課の法規係で1年間勤務しました。本学に戻って、本部の学務部学務第一課の教務担当(現:教育推進部教育推進課教務グループ)に配属されました。そこで1年3カ月勤務した後、もう1回外に出る機会があったんです。2002年7月から2004年3月までです。

――それは何だったのでしょうか?

学務部にいたときに、南極に行く話が出てきたのです。南極地域観測隊です。観測隊も研究者だけでなく、夏隊と越冬隊に1人ずつ庶務担当がいます。その年は筑波大学に推薦依頼があったようで学内で公募がありました。上司が「南極に行ってみないか」と声をかけてくれたこともあって、「そういう機会があるならぜひ」、と手を挙げました。

――考えてみれば、それはすごい職場ですね。一冬(北半球では一夏)行ってきたのですか?

越冬隊でしたので、1年4ヶ月です。7月から極地研究所で準備を行い、第44次南極地域観測隊として11月末に出発して、1年回って次の3月末に帰ってきました。シドニー経由でパースまで飛行機で行って、フリーマントルからしらせ(初代)に乗り込みました。

――南極ではどんな「庶務」をしたのですか?

主に国内との連絡や、現地での会議・公式行事等に関わる事務などです。極地研究所への月例報告など、越冬隊としての公式の連絡窓口でした。防寒具や作業服、野外行動用品などの装備担当も兼ねていて、トイレットペーパーなど生活周りも含めた物品管理も行っていました。基地の設備の維持や雪上車の整備など機械関係の担当は、企業等から専門家が来ていました。

――なんだかすごい話ですね。

南極に行く機会を頂けただけでも筑波大学に採用されてよかったと、感謝してもしきれません。他機関を経験された方は多くいます。軸足を筑波大学に置きながらもう片方でいろいろなところに行って、その人が経験してきたことが筑波大学という組織の糧にもなるというところがあるような気がしました。

――その南極観測隊は普段の大学での業務と違う体制での仕事だったと思いますが、どのようなものだったのでしょうか?

研究・教育機関や民間企業等から様々な分野の専門家が集まって観測隊が編成されていて、越冬隊は40人でした。そのうち8人は昭和基地から内陸方面に約1,000㎞離れたドームふじ観測拠点で越冬しました。昭和基地で越冬したのは隊員32人とNHKのスタッフ4人の計36人でした。NHKのスタッフは、テレビ放送開始50周年記念事業で南極昭和基地から生中継をするために同行者として参加していました。

――隊での日本との連絡はどのように行っていたのですか?

主に通信衛星経由の電子メールでしたが、今のように常時接続ではありませんでした。

――余談ですが電車に乗っている時に衛星電話からかかってきて、びっくりしたことがありました。卒論の副査をしていた学生がヒマラヤの未踏峰に登山していて、卒業要件のことで連絡を取りたいと日本の事務局に言ったら本人がヒマラヤの山中からかけてきたのです。どうも筑波大学はフロンティアに行ってしまうところがあるようです。

当時利用していた通信衛星は2時間ごとの接続でしたので、電子メールも2時間に1回まとめて送受信するという具合でした。当然インターネットはできないので、日本の様子はわからないですよね。次の代の観測隊から常時インターネット接続になったようです。

――隔絶された環境にしばらくいて、いかがでしたか?

楽しかったです。

――「面白そうなことにチャレンジしてみよう」というのは、筑波的なカルチャーなのでしょうか? 私のつくばでの知り合いで2人南極観測隊に行った方がいて、1人は自然科学系の研究所、もう1人は市役所なのです。

つくばは気象研究所や国土地理院などがあって、南極観測隊の経験者は多いですよね。筑波大学も、私が行ったときは物質工学の先生と一緒でしたし、下田臨海実験センターから行った方もいます。最近では附属学校から参加された方もいますね。

――やはり筑波大学は、非日常というか一歩踏み出した先に新しい世界がある大学なのだと思います。

筑波大学に事務職員で就職してそんな道が開けているとは思いもよらないですよね(笑)。

――南極観測隊は応募者から選抜されるのですよね。

私の時には極地研究所から筑波大学に庶務担当の推薦依頼が来て、学内で選考がありました。3人くらい手が挙がったと聞きました。

――事務職員から3人も手が挙がるのですね。「南極に行きたいかー?」「おー!」って(笑)。

幸運にも推薦して頂き、指定の病院などで身体面・心理面での適応検査を受けました。健康面では問題ないと思っていたのですが、1ヶ所引っかかって生検が必要になり、腹腔鏡手術の検査を受けました。

――虫歯も全部治さないと南極に行けないのですよね。

はい、歯医者にも行きました。

――現地での食事はどうだったのですか?

昭和基地では調理担当の隊員さんが2人いて、バリエーション豊かで美味しい料理を作ってくれました。隊員1人ひとりの好みや苦手なものもすべて把握してきめ細かに心遣いをされていて、本当にすごいなと思いました。隊で一緒に食べる食事は大きな楽しみの一つでした。

――食事の話を出したのは、組織にしても何にしても、基盤を支えることやそれを担う人が大事だということです。

そうですね。南極観測隊も研究者だけでなく、隊員の半数は基地の維持や隊の活動を支える部門で構成されていました。

――大学でも私たち教員は事務の方々に支えられて日々の教育や研究ができるわけで、どちらが主役でどちらが脇役ということでなく、どちらも最前線に立って一緒に大学で仕事をしているのだと思います。

同感です。私は庶務担当でしたが、現地の夏の期間は全員体制で輸送や設営業務に従事しました。1年間越冬するために必要な物資の輸送やその年の観測に必要な施設設備の整備を短い夏の間に集中的に全員で行うわけです。越冬中も観測や設営で人手が要る時があるんですよね。そういう時は担当を越えて協力します。庶務の仕事そのものと言うより、他の担当の方と一緒に仕事をすることが楽しかったですし、貴重な経験になりました。

――そうすると、南極観測隊での経験はチームワークやマネジメントの話につながってくるのでしょうか。

そういうことかもしれません。

――他に南極で印象に残っていることは何でしょうか?

昭和基地から100㎞ほど離れた地点への野外行動に参加したことです。7名のチームで、氷上を雪上車で往復5泊6日かけて移動しました。見渡す限りの南極の自然とその造形には、ただただ圧倒されるばかりでした。他にも白夜、極夜、オーロラ、ブリザードなど数え上げればきりがないですが、そういう非日常を1年以上経験できたのは筑波大学に就職したからで、本当に貴重な機会を頂いたと思います。

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